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​Review

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「詩と旋律の必然性」を探し続けて「ことばをうたう」

〜あなんじゅぱすインタビュー

INTERVIEW:加藤梅造

Rooftop2017年11月号

Un ange passe.  

フランス語の言い回し

 

 話しの最中にことばが途切れると、フランス人は、アナンジュパス、「ほら、いま天使がとおったよ」とつぶやく。なんともきまりの悪い一瞬。この瞬間もまた心地よく思う、そんな懐の深い会話をしたいもの。中島らもが「下先の格闘技」で引いていて、ふと思い出した。話に「スが入る」とも言うらしい。東京に「あなんじゅぱす」なる楽団があるが、さてその天使はどんな顔をしているのかな。

鷲田清一哲学者)

『朝日新聞』 折々のことば

2015.9.22朝刊

鷲田清一 『朝日新聞』折々のことば 2015年9月22日朝刊

詩に命の火を点す

ライブ「秋の夜長のあなんじゅぱす(う/た)」

​                            

                                 

         マーサ・ナカムラ(詩人)

                           『現代詩手帖』2018.3号 Review 

  本に載った詩は、昆虫標本に似ている。本箱にピンで留められた標本を目で見て、私たちは頭の中で標本の手足を動かし、虚の生を見る。

 詩は歌い手、または朗読者によって「うた」われることで、命の火を点され、読み手の想像を超えた動きをする。一度死んだものが声(生)を得る。そこに再発見がある。昨年十一月、「あなんじゅぱす(ひらたよーこ+大光ワタル)の演奏と、詩人・藤井貞和の朗読」を聴きに行ったのは、藤井貞和さんが綴った詩の言葉が動き出す瞬間を目の前で見たいと思ったからである。

 藤井さんの詩に「巫」を感じることがしばしばある。過去の著作を読むと、藤井さんが現代詩とシャーマニズムの関連について思考を続けていることが分かる。最新詩集『美しい小弓を持って』からもそのことはうかがえる。

 あなんじゅぱすは詩を歌うバンドであった。谷川俊太郎の詩「きみに」、入沢康夫の詩「キラキラヒカル」の演奏の後、藤井貞和詩集の時間となり、「舟はどこへ」が歌われた。

 「わたしは/めをあけた病気の子供をかかえ/ことばもなくゆすぶりつづけるばかりだが/かれは/うれしげにすら言いつのる/「お舟はどこへ!」」

 ゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた歌曲「魔王」を思い出す。「魔王」では父、息子、息子を連れ去ろうとする魔王の三役を歌い手が演じ分ける。「舟はどこへ」では、歌い手は父、息子、そして息子の身体を通過する不気味な「舟」を表現する。中性的で年齢をもたないひらたさんの歌声は、ごく自然に主体を移り変えていく。その才能に驚かされる。そして、藤井さんの詩の主体に「虚」を感じた。主体が「虚」であることで、主体はまるで依り代のように変化していく。

 圧巻だったのは、「(う/た)」の演奏だった。「(う/た)/(ひきちぎったことばでうたう)/(しずんだことばは)(呼びかけることだろう)」。詩集でこの詩を読んだとき、私にとって( )は、言葉が地に落ちて形成した波紋の「形」であった。しかしひらたさんの歌声によって、( )でくくられた言葉は、他者を説得する以前の、感情と理性が整理されていない泥のようなもの、または、他者に言葉で伝えられる前に喪われてしまったものを思わせた。「(う/た)」という詩が、歌い手の獲得によって、生々しい命の火を再び得て、目の前で燃えているかのようだった。

 ( )にくくられ歌われる言葉は、今まで私が喪わせてきた自分自身の声のように感じられた。私自身の弱さのために、私によって殺された自分の亡霊を見た気がして、涙が流れた。ある種、亡霊が生者の前で物語る能舞台を見たようでもあった。

 (2017年11月5日、新宿ネイキッドロフトにて)

あなんじゅぱすレビュー マーサ・ナカムラ 現代詩手帖

後藤雅洋

ジャズ喫茶「いーぐる」店主、

 ジャズ評論家)

音楽之友社『Stereo』2009.6号

現代の手法で”自立した佇まい”を感じさせてくれる作品群を紹介 

 

 あなんじゅぱす,ひらたよーこの歌声も他に類例のない独自の境地を獲得している。彼女が長年にわたって追求してきた,現代詩を歌うシリーズの最新作『旅人かへらず』は,西脇順三郎,萩原朔太郎といった現代詩の巨人たちの作品にひらたが曲を付けて歌ったもので,声の力とことばが拮抗した素晴らしい作品。歌というものの根源力的力を思い出させてくれるアルバムである。

ひらたよーこ,の歌声 

 

「詩」って,こういうものだったのか。

 ひらたよーこの歌声を聞くたび,そう思います。

 彼女が歌う時のことばといっしょに,自分の心が,過ぎてしまった時間,知らないのに懐かしい時代へ,遠く運ばれてしまうようです。

関川夏央(小説家)

 

CD『旅人かへらず』(2008.9)

細胞が記憶している歌声

ことばをうたうバンド あなんじゅぱす 春のコンサート

​                            

                                 

        (音声詩人)佐藤 円

                         『アルセン』vol.47 2007,4,13発行 

             発行者 財団法人仙台市市民文化事業団

  時は1970年代初め、賑わいの大通りを歩いていると、ふと道端に小さな木製の傷だらけの椅子、ライブのチラシが貼ってある。「あなんじゅぱす」・・・。何だろう、この妙にひっかかる語感。そんなことを思いながら、細い地下へ続く階段を一歩一歩おりていく。ドアを開けるとそこは小さなライブハウス。薄明かりの中で力強いメッセージを放ちながら独特の存在感のある歌声が空間を満たしていく。ーーーなんていう空想を膨らませてしまった。実際はついこの間行われたコンサートで、会場はビルの6階なのだが。

 ことばをうたうバンド「あなんじゅぱす」は、劇団青年団に在籍しているひらたよーこさんが演劇と音楽活動の結実点として結成し、今年で11年目を迎える。今までに正岡子規の短歌から現代詩まで百年の言葉をメロディーにのせ、さまざまなライブハウスはもちろん、保育園やホスピス、また海外でも広く演奏活動を展開している。

 今回の春のコンサートは「私は生きるのを好きだった」と題し、谷川俊太郎の詩を特集。全作曲・歌・ピアノがひらたよーこさん、音楽監督・キーボードは劇団 I.Q150の音楽でも知られる仙台市出身の只野展也さん、ギターはヤマハ仙台店の講師でもあるサイトウミノルさん、ドラム・プログラミングは奥州市出身の大光亘さん。出演者にゆかりのある東京・水沢・仙台で開催され、最終日がここ仙台となった。

 現代詩が歌になる時、さまざまな音楽的アプローチがあると思うが、「あなんじゅぱす」はフォークソング的アプローチのような気がした。そして何よりもひらたよーこさんの歌声が魅力的だ。「あなた」という楽曲はプログラミングされたビートにのせ、つぶやくような語りかけで始まる。ひらたさん自身が”俳優が台詞をしゃべることは言葉を演奏することに限りなく近い。そしてそれは歌うこととも限りなく近い”と言うように、たとえメロディーがついたとしてもどこかしゃべっているようだ。かすかに震えるようなビブラートを伴って一つ一つ言葉をかみしめるように歌い、裏声になると非常に透明度の高い声になる。その変化する歌声が心地よく、聴く人の心をタイムスリップさせ、言い様のない懐かしさを連れてる。

​ 

それは、生まれながらに人間が持つ、いわば私達の細胞が無意識に記憶している歌声とダブるのかもしれない。

 (2007年3月14日、ヤマハ仙台店6Fホールにて)

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江森盛夫(演劇評論家)

 

『シアターアーツ』2004夏号

子規の耳と同化するよう。あなんじゅぱすライブ公演『夏の夜の音』 

 

 中でも公演名の子規の随想「夏の夜の音」の弾き語りが素晴らしい。姿が演劇的だし、イメージが豊かで子規の耳と同化するよう。それと子規の短歌を作曲した「ベースボールの歌」が絶品。強引に作曲した感じの歌がひらたのピアノと歌で魅惑に昇華した。近代の曙の初々しさが伝わってくるようだ。

ある日、本棚から子規全集が落ちてきて ひらたよーこは短歌と現代詩をうたう

 

 死を待つ病床で聞こえる音と声をひたすら描写する子規。ひらたの歌声の中に、彼の透徹した思いがみえるような気がして、胸がつまった。

『芸術新潮』

2004.6号

『河北新報』

2003.12.18朝刊

あなんじゅぱす レビュー 河北新報 2003年12月18日朝刊

演奏と言葉の出会い 

舞台「夏の夜の音」(あなんじゅぱす) 

 明るく、懐かしさを感じさせるメロディー。体内にすーっと入ってくる言葉の数々。圧巻は、公演名となった子規の随想「夏の夜の音」の弾き語りだ。

それはある意味、当然かもしれない。現代詩や短歌を「演奏する」というこのバンドの出自からして、すでに「ことば」との幸福なめぐり合いは約束されていたのだから。

ことばをうたうバンドあなんじゅぱすを知っていますか?

 

 現代詩に曲をつけて、いきいきとうたうバンドがある。あなんじゅぱす。作曲も手がけるひらたは、劇団「青年団」の主力女優として知られる。 読まれるために書かれた詩が、まぎれもない「歌」になっていることに驚く。出色なのは「ベースボールの歌」と「あけがたにくる人よ」。前者は正岡子規の短歌9首がひとつづきの歌詞となって、まっすぐにうたわれる。後者は永瀬清子晩年の詩集の表題作。永瀬の詩でスウィングできるなんて誰が想像できただろう。

『芸術新潮』

2002.11号

東直子(歌人 )

『日本経済新聞』

2002.11.30夕刊

二十一世紀の向日的なあかるい歌声 

 

 ミュージシャンのひらたよーこが、正岡子規の短歌連作「ベースボールの歌」に曲をつけ、ライブで歌ったものがCDになっていて、ときどき聴いている。「九つの人九つの場を占めてベースボールの始まらんとす」といった、ベースボールに高まるこころを閉じこめた言葉が、二十一世紀の向日的なあかるい歌声にのり、空に飛ばされてゆくようで、とても気持ちがいい。

子供性と大人っぽさ

 

 僕も言葉の人間なので、やはり気になるのは詩です。僕がズバリあなんじゅぱすに感じたおもしろさは、子供性と大人っぽさの同居しているバランスです。「そこにお墓がたっているみたいだ」という表現が、非常に青年的なものとして感じられた一方ですが、「ポヨポヨ」や「たそがれパンダ」というような言葉には少年性を感じます。その2つの特徴は、谷川俊太郎さんの詩を歌う瞬間に、見事にバランスポイントを作っているような気がします。ズバリ、あなんじゅぱす  は「詩」を歌うという行為を通して、少年性と青年性が結実点を作り出す世界を目指しているわけではないでしょうか? そこにはきっとまだいろいろなトライの可能性もあるかもしれないですね。

サエキけんぞう

 (アーティスト・プロデューサー) 

田中庸介

(詩人 )

ことばを歌うバンド 

 

 あなんじゅぱすがほかのバンドと違うところはいろいろあるけれど、特に歌詞として書かれたわけではない現代詩にそのまま曲をつけて歌いこなしてしまう底力にいちばん感心しています。現在、ポエトリ・リーディングはものすごく流行していますが、作者の顔を見てもらう以上のことにはなかなかならないのが悩みです。そこで「オフ、」をひらたよーこさんに曲にして歌ってもらいました。ちょっとせつない、夏の終わりの奥秩父の山の詩です。


 心配した吉祥寺での初演は大成功で、満場の観客が口々に「田中さんの詩の世界がはじめてわかった」と言ってくれたのです。詩人とは世界のエネルギーを通すチューブのような存在だと思うのですが、あなんじゅぱすの音楽によってそのエネルギーが無事に、やっと観客のところにまで手渡されたような気がしました。それはどんな極上の文章にも負けない、きらきらとした詩の批評でした。

プニャプニャ

 

 手回しのよいDuoの鮮やかなピンポイント攻撃に不意を疲れて口元が緩む心地も又、一興なのだ! 少し幸せ、よーちゃんのキャラ、演じている時以上に唄っている時の方がどこか自由にプニャプニャしていてやっぱり面白いと言うか、強い個性と掴み処のない独特の世界を感じさせるナノダノダ!

はしだのりひこ

 (シンガー・ソングライター) 

晄晏隆幸

(『よい子の歌謡曲』元編集長 )

メロディーという発見

 

 あなんじゅぱすが取りあげた現代詩の作品は,まるではじめからメロディーが付くことを前提としていたかのように,完全に「歌」に変貌している。正岡子規や田村隆一,谷川俊太郎や田中庸介が,そんな詩を書いたはずはないのだが。かつて『ドラえもん』がアニメ化されたときの話。「ドラえもんってこんな声だったんですね」と藤子・F・不二雄は大山のぶ代に言ったという。ドラえもんの声は,そのとき大山のぶ代によって「発見」された。同じように,あなんじゅぱすの歌は,詩人たちの作品にとってのメロディーを「発見」しているのだろうとぼくは思う。あなんじゅぱすが現代詩にメロディーをつけて歌っている,という言いかたは誤解を招きかねない。木に竹を継いだような代物でよければ,そんなことはだれにでもできるからだ。あなんじゅぱすの歌には,推進力がある。その生きている歌を聞いているあいだに,気になる言葉があって歌詞カードを見たら,その言葉の作者が歴史上の人物だったり現代詩人だったりするだけの話である。あなんじゅぱすのひらたよーこさんと話をしているとき,ふとミュート・ビートの名前が出たことがある。1980年代,世の流れとは関係なく,ミュート・ビートの音楽は聞く者を確信させる力を持っていた。あなんじゅぱすとミュート・ビートに音楽上の共通点があるわけではないが,あなんじゅぱすを聞いて,ぼくは当時の確信を思いだしていることに気づいた。念のため,あなんじゅぱすのすべてのレパートリーが既存の詩作品を歌っているわけではない。オリジナル歌詞が鮮烈な「かわいいウサギ」は,なかでもこのデュオの代表曲と言っていいだろう。ぼくは,この曲をライヴでいちど聞いて,ほぼ歌えるようになった。友人はいま,この曲をピアノを弾きながら歌う練習をしている。それに値する名曲だと思う

あなんじゅぱす公演によせて

ホスピスライブ「夜の江ノ電」

柴田岳三(日鋼記念病院 緩和ケア科 医師) 

 「あなんじゅぱす」とは何だろう、どんなことをするのだろうという思いが強かった。音楽療法などホスピスで演奏する音楽はクラシックや歌曲、童謡など比較的静かで、誰でも知っている曲が多いのだが、あまり聴いたことのない出し物なので一抹の不安を感じていた。紹介して下さった福士史麻さんはおじいさんを当院のホスピスでしばらく看病していたので、雰囲気は分かっているはずだとは思いつつも、やはり始まるまでは不安をぬぐいきれなかった。

 

 準備は前日から始まった。ピアノの位置を変え、大がかりな音響設備やキーボードなどの機器が運び込まれ、慎重に位置を設定し、カーテンの開き方に至るまで、それは予想していた以上のきめ細かさであった。音量の調節や階上の病室への影響を測る目的に予行演習が始まったが、私はこの段階で感動を受けてしまっていた。映像に出てくる景色が子どもの頃遊びに行ったことのある江ノ電沿線であったため、なおさらであったかも知れない。それがまさか北海道の室蘭で見られるとは思わなかった。しかしそれにも増して、ひらたよーこさんの心に染み渡るような弾き語りの響きの美しさと只野展也さんの伴奏が絶妙であったからだ。

 

 当日、もう不安はなかった。ただホスピスというところは具合の悪い患者さんが多いところではあるので、その日に聴衆がどのくらい集まってくれるかが懸念材料ではあった。しかしこの日は幸運なことに患者さんやその家族の方々が予想以上に集まってくれた。いつもより長めの1時間近くの出し物ではあったが、最期まで残る人が多く、中には涙を流すに任せる患者さんもいた。後でひらたよーこさんはそれを背中で感じていたと話されていた。

後片付けも終わり、皆で夕食をともにしたが、皆の顔には一つの仕事をやり終えた満足感と安堵の表情が漂っていた。

 (2003年8月5日 医療法人 社団かレス アライアンス日鋼記念病院にて

 

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